「敵意の中で見ること」 01.09.23 サムエル上26:1〜12、ローマ12:19〜21
その夜、ダビデの前に自分を追い回し苦しめる相手が無防備で眠っていました。
相手を倒す絶好の機会です。
神様はサウル王の陣営に深い眠りを送り、そのような時を用意されました。
ダビデの仲間のアビシャイは、その時をサウルを殺す絶好の機会と考えました。
しかし、ダビデは別の仕方でこの時を使いました。
ダビデは、大きな誘惑と戦いました。
「今こそ自分が神のようにすべてを判断し、決定する時ではないか」
アビシャイの声もそのように響きます。
その中で、ダビデは、真の主は誰かを確認します。
主を見つめ「主は生きておられる」ことを知り、「自分は主ではない」ことを確認しました。
そこに立つことによって、自分に敵意を向ける相手を抹殺するのでない道を見出していきました。
主を主とする時に、周囲の見え方は変わります。
そこを立ち去ったダビデは、サウルに対し、主を主とする生き方に立ち返るように呼びかけました。
ダビデは、神の与えてくださった時を、そのように用いました。
主は「敵を愛し、その相手が天の父の子になるように祈りなさい」とおっしゃいます。
ローマの手紙では「敵に食べさせ飲ませなさい。敵の罪が赦され救われるために」と語られます。
私たちは、主がご自分の命を捨てて成し遂げられた救いのためにこそ、心を砕くのです。
このことは単なる理想として片付けてよいことではありません。
神こそがすべてを正しく裁くことのおできになる主であり、自分たちは主ではないということを見失っている
世界に、何が生まれるでしょうか。
そこには光はありません。 もちろん、自分に敵意を向ける相手の救いを願い続けることは簡単ではありません。
しかし、十字架の上で、神に敵対していた私たちのために「父よ、彼らをおゆるしください」と祈ってくださった
主イエスのお姿に支えられます。
主を主とする者であり続けたい。そこに必ず神からの光がさすことを信じています。